こんにちは、Romy(ロミー)です。
2016年夏に家族で鎌倉の海のそばに移住し、このウェブサイト&ブログを立ち上げました!
それまでは横浜に住んでいて、すったもんだありましたが…… 鎌倉に来て心機一転!生活がガラッと変わり、今では家族でのびのびと暮らしています。
この記事ではそんな私自身の過去を詳しくご紹介しているので、ちょっと長いですが読んでいただけたら嬉しいです!
〜2021年8月追記〜
この記事を公開してからまたいろいろあって、2020年終わりに離婚。再々スタートを切りました(笑)35歳以降のストーリーは徐々に追記します!
なお、かなり個人的な話になるので、純粋に鎌倉暮らしについて知りたい方は下記記事をお読みください。

学生時代
ニューヨークで楽しく過ごした5〜10歳

幼稚園の年長さんの途中まで横浜に住んでいましたが、父の転勤に伴いニューヨーク郊外へ引っ越し。小学4年生までの5年間を過ごしました。
この頃から、人前で何かを表現することが日常の一部にあった私。
小学生になってから日本人の先生の元でピアノを習い始め、毎年1~2回あった発表会では、ミスをほとんどしない、本番に強い子どもでした。
また、2年生頃からジャズダンスを習い始め、発表会にも一度出演。その時は体がムチムチなのに「パープルの全身タイツ」という恐ろしい衣装で…… あれは今でも苦い思い出です(笑)
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現地の小学校でもさまざまな体験をしました!
クラブ活動でもジャズダンスを選択し自分たちで振付を作ったり、乗馬を習ったり、吹奏楽団でフルートを演奏したり。
中でも一番影響を受けたのは、コーラス部の先生との出会いでした。歌詞一つ一つの意味をかみ砕いて私たちに伝えてくれ、それに声を乗せて聴いている人に届けていく。
時には厳しい指導もあったけど、彼の音楽への熱い思いは、ひょっとしたら私の活動の原点になっているかもしれません。
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そして、アメリカ内外のいろんな場所に旅行できたのもいい思い出です!
国内ではメイン、ペンシルバニア、ワシントンD.C.、カリフォルニア、アリゾナ、フロリダ(3回も!)など。海外ではバハマ(これまた3回も!)、ジャマイカ、バミューダと南国の海に行き、今の私の海好きもここからきっと来ています♪
毎年夏にはサマーキャンプに通い、そこでもアーチェリーやライフル、湖で水泳など貴重な体験をたくさんし、とにかく毎日が楽しすぎたニューヨークでの5年間でした!
日本に帰国し横浜のインターナショナルスクールへ
アメリカでのびのびと楽しく過ごしていた私でしたが、4年生が終わると日本に帰国。
両親の「英語を忘れてほしくない」という希望により、5年生からは横浜のインターナショナルスクールに通いました。
ここはイギリス系の学校で、聞き慣れないブリティッシュイングリッシュに苦戦。雰囲気も「自由」「のびのび」だったアメリカとはちがって、なんとなく固い感じ。
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でもそんな中の楽しかった思い出と言えば、5年生のときのミュージカル出演!1年に1回、ミュージカルを学校行事の一環として上演していたのです。
ブロードウェイで初めて観てからステージに立つことはひそかな憧れだったので、出演したい!とすぐ応募しました。
セリフが一言あったくらいだったけど(笑)「自分たちのパフォーマンスを観て、喜んでくれる人たちがいる!」「楽しい!」と、人前に立って表現する喜びを改めて感じた経験でした。
中高一貫の女子校に編入し、文化のちがいに苦しむ
結局インターは6年生まで通って辞め、「絶対に日本の勉強にはついていけない!」と反対していた両親を説得し、自ら日本の学校への編入を希望(← 実態をわかっていなかった笑)。
帰国子女枠でまだ受け入れてくれた鎌倉の私立の女子校に合格し、中学1年生の途中から約6年間過ごしました。
でも想像していたものとはちがい、逆カルチャーショックの連続で、苦悩ばかりの学生生活を送ることに……
「帰国子女」とは当時まだもの珍しい存在だったようで、編入した初日に「どの子が帰国子女の子??」とちがうクラスからも見学?見物?に来られたり。
それまでの感覚で何かを言っただけなのに、「わーーーこの子キツイ!!」と騒ぎ立てられたり。
「このままではここに馴染めない」と危機を感じた私は、なるべく自分の意見をはっきり主張しないように気を付けながら生きるようになりました。
だんだん親にも友達にも自分の言いたいことが言えなくなり、それが自分のデフォルトに。結婚してからは夫との関係性でも継続し、30代前半まで引きずってしまったのです。
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この頃も「舞台に立ちたい!」という思いは変わらず、まずは演劇部に入部。でも思い描いていたものと違い(理想だけは高くて……泣)、結局バトン部に入った私。
中学3年間は、ポンポンやバトンを持って体育祭や文化祭、県大会などでたくさん踊る経験を積みました。ただ、いわゆる「体育会系」なノリ、女子校の独特の雰囲気、上下関係や根性論にはどうしても馴染めず。
アメリカに帰りたいという思いは常に心の中にある日々。「死にたい」と思って学校のベランダから下を見下ろすこともありました(2階だったけど笑)。
そんな中唯一楽しかったのは、祖母に連れて行ってもらって以来ハマった宝塚観劇!母と足しげく劇場に通い、華やかなミュージカルの世界への憧れはどんどん募っていきました。
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私の学校は進学校だったので、高校生になると早々に卒業後の進路の話が浮上。
「やっぱり舞台に立ちたい。じゃあまずはそういう学校に行こう!」と、舞台芸術の大学や専門学校、アメリカやイギリスの学校も調べたけど、最終的にはそこまでする自信と勇気もなく、両親を説得することもできず。
大学に行ってから改めて演劇の道を目指そうと受験勉強に励んだ結果、受けた大学は全て合格。その中で自分の感覚に一番合うと思い、上智大学に進学することを選びました。

これは卒業旅行の写真(笑)こんな芋臭さ全開のビジュアルで、本当に自分に自信がなく、勉強だけが取り柄だったような……
高校2年生の夏には卵巣膿腫という病気で手術を経験。特に原因については何も言われなかったけど、過度のストレスが影響した可能性もあるかも?まぁ真相はわからないけど。
もともと生理痛に悩まされていたし、アトピーも出ていたし、手術によってますます女性であることを受け入れられなくなった気がします。
大学生になって演劇三昧の生活に

さっ!晴れて華の?女子大生になって早速演劇サークル探し!
最初に入ったのは英語劇のサークルで、その後あちこちに顔を出すうちになぜかロシア語劇団のメンバーに。と言ってもロシア語で芝居をするわけではなく、主にロシアの有名な戯曲家チェーホフの作品を日本語で上演。
最も思い出深いのは「かもめ」という作品でした。私は主役のニーナ役がやりたかったけど抜擢されず、マーシャという黒い服をずっと着た暗い役だったけど(笑)
大学3年頃になると、より本格的に自分たちの舞台を作りたい仲間で演劇ユニットを立ち上げ。私は中心メンバーとして、役者をしながら舞台美術やチラシ制作などいろいろな仕事に携わりました。オリジナル作品が多かったけど、一番好きだったのは鴻上尚史さんの「トランス」だったなぁ。
一つの作品を自分たちの手で一から創り上げる経験は、のちのベリーダンスパフォーマンスの演出にも役に立ったんじゃないかと。合計で10数本の舞台に立ち、とにかく寝ても覚めても演劇!な大学時代でした。
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でも逃れられない現実が、就職活動。芝居をやっている周りの先輩の多くは留年していたり、卒業してからもフリーターをしながら続けている人もいました。
私も「就職なんて考えられない!このまま芝居を続けていくんだ!」と思ってしばらく就活は適当に(笑)やっていたけど、再び親と衝突。結局高校生の頃と同じように、まずは無難に就職してから、改めて自分の道を追求していこうと決めたのでした。
学生の頃は親とのコミュニケーションがうまく取れず、その結果自分がやりたいことを諦めて先送りにする傾向にありましたね……
社会人になってから(2003年〜)
うつ気味になり、会社員生活は1年にも満たず
2003年に止むなく就職したものの、自分の中では「1年で辞める!」と決めていた私。実際は少し早い9ヶ月で辞めました(笑)
やっぱり人間、無理はよくない。いやだいやだと思って毎日過ごしていると、だんだん体の調子が悪くなってくるんです。
大学生の頃もそうだったけど、人が多いところがとにかく苦手で。朝職場に行くのが苦痛で仕方なく、満員電車も辛くて途中下車し、少し気持ちが落ち着いてから出勤する、なんていうこともしょっちゅう。
オフィスビルの大人数が乗るエレベーターが怖くて階段で7階まで行ったり、診療内科に通って軽い精神安定剤を処方してもらっていました。完全に気休めだったけど……
(あとになってこれはHSPであるがゆえだなってわかりました ↓)


でもそんなことをいつまでも続けていたって仕方がない、と頭の中ではわかっていた私。現実を変えるべく、まずは何か好きなことを始めようと、ずっと興味があったフラメンコを習い始めました。
週末にできた息抜きの時間は救いで!ダンスがあったおかげで、この辛い時期をなんとか乗り越えられました。
好きなことを少しでも生活に取り入れるって本当に大事。 「好き」「楽しい」のパワーはすごいです!
大きな仕事が舞い込んできてナレーターに
実は演劇仲間に声をかけてもらったことがきっかけで、大学4年の終わりから現在のナレーター事務所に所属していました。
ただいきなり仕事が入ってくるわけでもないので、事務所に通って何度もレッスンをしてもらい、会社員生活と平行して下積み。それが2003年も終わりに差し掛かった頃、「大きな仕事の話が来た!」と事務所から言われ……
世界最大のミュージックチャンネルMTVの一大イベント「VMAJ」の専属ナレーターの仕事だったんです!ついに仕事を辞めるときが来たと判断し、短いOL生活にピリオドを打ちました。
これは私の人生の中でも大きな転換期。それまでは親と衝突して自分のやりたいことを諦めていた私が、ようやく自分の意志で自分の道を決意することができたのです。
個人事業主としてのワークスタイルがスタートし、ナレーターの仕事をしつつ、小さな化粧品マーケティング会社で美容に関する翻訳等の仕事をする2本の柱でしばらく働くようになりました。

ベリーダンスに出会ってはまる

フラメンコを習っていたスクールには、他にもさまざまなジャンルのクラスがあって土日受け放題!その日の気分でヨガ、フラメンコやバレエを受け、とっても充実した週末を送り始めていました。
そしてスクール主催のイベント出演時にベリーダンスに出会い、瞬時に魅了されたのです!
並行して習い始めるうちに、フラメンコはいつの間にかやめていました(笑)これほど「体にはまった」と感じた踊りはなく、とにかく踊っていて心地よい!
今まではヒーヒー言いながら、顔を真っ赤にして呼吸が苦しくなりながら踊っていたこともあったけど(涙)ベリーダンスだと汗はたくさん出るけど、そういう苦しさがなくて。
始めていくうちに、ベリーダンスにはいろんなスタイルがあることを知り、その時その時に惹かれた先生に習っていました。

結婚してから(2006年〜)
25歳でまさかの結婚
2年の付き合いを経て、なんと25歳という若さで結婚しました!この頃の私はかなり勢いに乗っていたみたい。もともと結婚願望もなかったし、できるとも思ってなかったのに……
彼と同棲したいと母に相談してみたら「結婚しないのに一緒に住むなんてダメ!」と言われ、「じゃあ結婚するわ!」という流れ(笑)今思えば親への反発の表れとして結婚を選んだ感ありです……
ただ、結婚式直前から中高時代に苦しんだアトピーが再発。幸せいっぱいの結婚生活というよりも、大部分はアトピーとの闘い、夫婦関係のトラブルが常にありました。
ベリーダンサー&講師業スタート

この頃は出たがりで機会さえあれば発表会やイベントに出させてもらっていたけど、だんだんその欲が大きくなり、もう少し積極的に踊れる場を探すようになりました。
とにかく「好き!踊りたい!」という気持ちだけで行動。こういうときは本当に勢いがすごい(笑)10代の頃失っていた積極性をすっかり取り戻しました!
とあるレストランでのベリーダンサーオーディションを受け、無事に合格。2007年の夏頃から毎週のようにショーに出演し、少しではあったけど踊ることでギャラをもらえるように。
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そしてプロダンサーとして活動し始めた勢いに乗って、2007年10月よりインストラクター業も開始。
きっかけは「ベリーダンスの魅力を他の女性にも知ってほしい!」という純粋な思いから。当時流行っていたmixiでインストラクター募集の投稿を探した記憶があります!
でも、若さと勢いだけで始めてしまったので、「どうやったら初心者に理解してもらえるか?レッスンを楽しんでもらえるか?」試行錯誤の日々でした。
その後また別の募集を見つけて応募したベリーダンススクールAALANJUの所属インストラクターとなり、1か月ほどの見習い期間を経て、2008年1月よりレッスンを持たせてもらえるように。
まだ自分自身がインストラクターとして駆け出しにも関わらず、大手フィットネスクラブでのベリーダンスインストラクター養成講座を北海道と名古屋で担当する機会もいただきました。
この時の経験は、私のレッスンの礎となっています。
初めての妊娠と出産

いよいよベリーダンサーとしての活動を本格化させよう!と気合いを入れていた矢先に、まさかの妊娠!27歳のときでした。
「なんでこのタイミングなの?」とかなりの動揺と葛藤を抱えながらも、幸い妊娠の経過がずっと良好だったので活動はそのまま続行。まだ周りで妊娠・出産を経験していた人はほとんどいなく、不安でいっぱいだったけど……
妊娠9か月の頃に最後のパフォーマンス、臨月に入って最後のレッスンを終えて「さぁそろそろ出産の準備でもしようかな」と思ったら…… 予定日より2週間くらい早く、最後のレッスンの4日後に息子が生まれちゃって(笑)
助産院で出産しましたが、到着して1〜2時間後にはもう外に出てました!10代の頃はあれだけ婦人科系トラブルや病気に悩まされたのに、初産で超安産だったのはベリーダンスのおかげだと思ってます♡
出産してから(2009年〜)
「ロミーベリーダンススクール」を立ち上げ
本来なら赤ちゃんとゆっくり過ごすべき時期にも関わらず、私の心の中は不安と焦りでいっぱい…… 活躍の幅を広げている他のベリーダンサーの遅れを取ってはいけない!と、産後3ヶ月でレッスンを再開。
AALANJUは辞めていたので、少しずつ新たに教えられる場所を探し、カルチャースクールやママ向けサロンでレッスンを担当するように。パフォーマンスも産後6ヶ月頃に復帰。
そして2010年7月、ひょんな流れからロミーベリーダンススクールを立ち上げ。自分の手で生徒さんを集めてスクールを運営するというのは、与えられた場で教えるのとは全くちがいました。
2013年秋からは、カルチャースクールやフィットネスクラブでのクラスを全て手放して主催クラスのみにし、自由ヶ丘や渋谷、東銀座などで初心者・経験者向けレッスンを開催。
毎年2〜3回は発表会を主催したりイベントに出演したりと、息をつく間もなく、とにかく無我夢中で何かに追われるようにひた走っていました。
起業セミナー通いとSNS漬け → 夫婦関係の危機
自分のスクールを立ち上げた2010年からアメブロでの集客を始め、その流れからさまざまな集客セミナー、ブログ講座やビジネスコンサルなどを受けるように。
いつの間にか最近で言う「SNS起業」「起業女子」などの世界にどっぷり浸かっていました。
レッスンを数か所で主催し、常に次の発表会の企画、振付作り、リハーサル、とスクール経営者として活動しながら、生徒数を増やして売上を上げるべくセミナー通いをし、日常の華やかな一面を切り取ってブログ・Facebookなどに投稿する……
そんな毎日を繰り返しているうちに、不穏な空気が家庭内を流れ始めるようになりました。そりゃそうよね、妻が年がら年中ブログのネタ集めをし、謎の自撮りや動画撮影をするんだから(笑)
何度も夫にセミナー通いやベリーダンスの活動自体を止められ、「英語を活かした“普通”の仕事、会社勤めをすればいい」と言われたけど、新卒の経験からもその生活に戻る気は全くなく。
「いや、もっとがんばったら結果が出るから!」と、数々のバイトと並行しながら無理しているうちにアトピーがどんどん悪化するようになり、いよいよ夫婦関係の危機も本格化していき……
2015年春にまずはスクールを手放すことにしました。
アトピーで身も心もボロボロに
スクール運営を辞めたものの、完全にベリーダンスを手放すことはせず少し形態を変えてレッスンを継続。
でもそれまでの無理が積もりに積もって、もう身も心もボロボロでした。このブログには写真を載せられないくらい、体はやつれ、皮膚は赤くてガサガサで、目はうつろで……
「もうこんな私生きていたって意味がない!死ねばいい!」なんて発狂することもありました。
それでも根底にある前向き精神のおかげで(そして最愛の息子の存在があったから)、なんとかしてこれを乗り換えなきゃと思い、自分と徹底的に向き合うことにしました。
ベリーダンサー・講師としての活動を始めてから、とにかく「人気になること」「売れること」ばかりを追い求めて、本当に自分がしたいことからはどんどん離れて行っていたことに気づいたんです。
ただ純粋に踊ることが好きだったのに……
「生活のために稼がなきゃ」という思いから家庭を蔑ろにするような毎日だったけど、家族で楽しく笑いながら暮らしたい、本当はもっとシンプルな暮らしがしたい、とだんだん気づきました。
離婚の危機を経て修復の道に
何度かの夫婦の危機を経て、2015年に本格化した離婚の話。でも夫と話し合いを何度も重ねていくうちに、結婚前の仲が良かった頃と変わらない調子で話せるようになり……
- あれ?これってもしかして単にコミュニケーション不足じゃない??
- お互いに夫婦関係を良くする努力をしないまま、相手のせいにして、「もう無理だ」と言っていたんじゃ?
と思うようになり、じゃ離婚せず関係修復の道を改めて探ってみることに落ち着きました(笑)
危機一髪だったけど、やっぱり息子の存在が2人の中で相当大きく、彼のおかげで大切なことに気づかせてもらえたんだと思います。
そうして、2015年の夏から少しずつ修復へと向かっていきました。
鎌倉に引っ越して人生再スタート(2016年〜)
好きなことをやり始めて人生が一気に好転
結局のところ、2人とも若くして結婚したこともあって、「ちゃんとしなきゃ」という思い込みが強くて無理していたんですよね。
そして本当にやりたいこと・好きなことを我慢していたから、相手への不満もどんどん蓄積されていたんじゃないかと。
じゃあそんなのはやめてもっと自分たちらしく生きよう!と少しずつ生活全般を見直していくうちに、6年住んだ横浜のマイホームを売却し、海と山がそばにある鎌倉に引っ越す流れになりました。

私はずっとほしかったカメラを購入し、鎌倉の自然や神社仏閣、カフェなどを訪れて撮影しながらこのブログで紹介し始めました。
念願の海外旅行もようやくでき、旅に関することを仕事にしたいと思っているうちにトラベルライターの活動もスタート。
子どもの頃から歌・ダンス・演劇が好きだったところに文章と写真を通じた自己表現も加わり、いくつかのWebメディアでも執筆させていただきました。

環境問題に関する活動、離婚、パーマカルチャー、ダンスの再開
これから書きます!
最後に
ここまで長文にお付き合いいただきありがとうございました!
10代から30代前半にかけてのアップダウンの繰り返しを経た私の結論は、「一度きりの人生を謳歌しよう!」ということ。
他人の目を気にして、我慢したり、無理したり、諦めたりするのを止めて。「こうあるべきだ」という世間の常識や枠を取っ払って心を自由にして、この人生を思いっきり楽しもう!
そしてそういう生き方を体現することで、もっと自分の人生を生きる人が増えてほしい。そんな気持ちでさまざまな活動をしています。
これからますます楽しく過ごしていきながら、「枠にとらわれずに人生をエンジョイする方法」を発信していくので、ぜひ今後も読んでいただけたら嬉しいです!