生と死の境界線はあるの?死生観と老いることについて

さまざまな植物が生い茂る壁

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最近の活動や友人たちとの会話、読んでいた文章で、死生観に関する話題が度々出てきている。まだ完全に自分の中で腹落ちしているかはわからないけど、今日また3・11を迎える中でも改めて考えていて。

この1年に及ぶコロナパンデミックを見ていても、人々の死への不安や恐れについて考えさせられる。

購読しているメルマガで紹介されていた文章がとても響いたので、一部抜粋して意訳してみました。

目次

「老いる」とはどういうことか

枯れ葉

私がメルマガ登録している「DAILY GOOD」でシェアされていた記事より:

In modern Western society, we want to preserve everything and we want to live forever. We wage war on old age and write songs about being forever young. Because death is seen as no more, no less than the end of the line—something to be held off and resisted—we live in constant fear of it.

Eldering in the Age of Consumption/DAILY GOOD

現代の西洋社会において、私たちはあらゆるものを保存し、永遠に生きたいと思っている。老人に戦争を仕掛け(※ここの訳に自信ない…)永遠に若くいることについて歌を書く。死は終わりを意味するから ーそれは阻止し、抵抗するものー 私たちは常にそれを恐れて生きている。

But to the Celts, death was inextricably intertwined with life. Every month the moon died and was reborn. Every winter the Sun died and was reborn. The tide came in and the tide receded. To think that you could avoid these natural cycles was not only unthinkable but undesirable. Out of all the dying, something precious and new is always born. Unending transformation, the greatest of all the gifts the Earth offers us, life in death and death in life.

Eldering in the Age of Consumption/DAILY GOOD

だがケルト人にとって、死は生と切っても切り離せないものだった。毎月、月は死に、そして再生した。毎冬、太陽は死に、そして再生した。潮は満ちては引く。こういった自然のサイクルを避けられると思うことは、考えられないだけでなく望ましくないことだった。あらゆる死の中から、必ず何か貴重で新しいものが生まれた。終わることのない変化、地球が私たちに与えるギフトの中で最大のものは、死の中の生、生の中の死なのだ。

Perhaps more than anything, to become elder is to be comfortable with your place in the world, finally to have understood where all of your various journeys have been leading you, to understand your gifts as well as your limitations, and to tightly focus those gifts on service to the earth and to community. 

Eldering in the Age of Consumption/DAILY GOOD

ひょっとしたら何よりも、老いるということは世界での自分の居場所に落ち着くこと、これまでのさまざまなジャーニーがあなたをどこに導いていたのかをついに理解すること、あなたのギフト(才能)とともに限界も理解すること、そしてそのギフトを用いて地球とコミュニティへの奉仕に取り組むことなのかもしれない。

大木

私が一緒に活動している、東京アーバンパーマカルチャー(TUP)のソーヤー海くんがよく話してくれることの一つが「境界線(border)」について。

「私と他人」「人と自然」「生と死」など言葉で区切られているけど、それらの境界線はどこにあるんだろう?と。

「生と死」に関して言えば、そもそも私たちは生まれた瞬間から死に向かっているわけで、生/死、みたいにバシッと切り替わるものでもなくて、もっとグラデーションの中で生きているというか……

自然を見ていれば、春夏秋冬があるように絶えず命が生まれ、成長し、枯れて死に、そして再び生まれ……という循環の中にいるのに。

それがどれだけ自然で身近なものかがわかると、死への恐怖心、なんとしてでも阻止ないし延ばさなければと思うこともなくなる気がする。

 

もちろん大切な人の死はとても悲しく辛いものだし、自分自身の死について考えるのも怖い。でもそれも命の循環の一部に過ぎなくて、土に還っていずれまた新しい命が生まれる土壌となるんだよね。

それを受け入れた上で、「じゃあこの与えられた命をどのように生きよう?」って考えるのが大事なんじゃないかな?

そして自分のギフトをこの世界に放ち、一日一日を大切に生きたいなと思う。

さまざまな植物が生い茂る壁

トップ画像にしたこの写真は、長谷の路地裏で見つけた壁。こういうところにも、さまざまな命が共生しているのが見られるね!

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この記事を書いた人

Romy | ロミーのアバター Romy | ロミー 〜Celebration of Life〜

横浜・NY育ち。鎌倉暮らし7年半を経て2023年末に家を手放し、移動生活をスタート。「いのちの祝福」をコンセプトに、地球一つ分のパーマカルチャー的な暮らしの実験と旅をしているモバイルボヘミアン。
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